都甲義則さん。 大正14年2月28日生まれ.
2016年1月24日、大勢の子供や孫、ひ孫に囲まれて、
安らかにその生涯を閉じました。
----------享年89歳。
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2012年8月 、大勢の子供や孫、ひ孫に囲まれて、
米寿の お祝い会。
長いこと中学校の先生をやっていたので、
近所の人から「よっちゃん先生」と呼ばれています。
中学校の校長を最後に教職を離れて、随分たちますが、
変わらず「よっちゃん先生」と
親しみを込めて呼ばれ続けたのです。
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「よっちゃん先生」の奥さん、
頼子さんもこのころは元気でした。
少しばかり、幸せな病気が進行しています。
辛かった記憶を忘れさせてくれる幸せな病気。
楽しかったころの歌はしっかりと覚えています。
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8人の子供達、一人は交通事故で他界しましたが、
7人は元気に育ってそれぞれの家庭を持ち、
沢山の孫もできました。
ひ孫も次々と出現中です。
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よっちゃん先生が長い間勤めた山香中学校。
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上中学校。
ここで教鞭をとったこともあります。
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よっちゃん先生が通った東山香小学校。
もちろん子供達もこの小学校に通いました。
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ここは保育園。昔は東山香中学校がありました。
よっちゃん 先生が始めて教鞭を振るった場所です。
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先生になる前は獣医さんだったんですよ。
近所に住んでいた先生が病気になったため、
頼まれて臨時的に教壇に立ったそうです。
それがいつの間にか本職になっていったのです。
獣医を辞めて先生になった理由は、
「動物も可愛いけど、子供達のほうがもっと可愛いから」
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子供達が大好きで
人の御世話をするのが大好きな「 よっちゃん先生」は、
地元の神社の氏子総代を勤めていました。
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よっちゃん先生は杵築中学、今の杵築高校を卒業後、
鹿児島専門学校、今の鹿児島大学獣医学部を卒業しました。
昭和20年、先の戦争の戦局が厳しくなり、同年代の多くが戦地に赴き、若い命を散らしていました。
獣医学部は徴兵免除だったのですが、多くの若者達が、
国のため、郷土のため、家族の ために命を捧げる姿をみて、
本人も兵役志願を決意しました。
昭和20年4月、兵役 志願書を携えて久留米連隊を訪ねました。
面会した将校は国のために命を捧げる決意をした青年にこういったそうです。
「この戦争はもうすぐ終わる。日本は負ける。
今、君が戦地に行ったところで戦局は変わらぬ。
犬死だ。
生きて、生き延びて、
この戦争で破壊され、疲弊しきった日本を立て直すのが君の仕事だ。」 と。
そういって、志願書を彼に差し戻して席を立った そうです。
卒業後、故郷の山香町に戻り、獣医として活動するかたわら、
戦争で疲弊した地域の復興をめざして町の青年団活動に邁進しました。
教員になった後、熱心に労働組合活動に携わっていました。
そうした活動に批判的な人達もいました。
「青年よ銃を取るな」
「教え子を戦場に送るな」
というスローガンのもとに行った組合活動は、
先の戦争で体験した辛酸を、
教え子達に二度と味合わせたくないという、
よっちゃん 先生の本心からでた行動だったと思います。
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よっちゃん先生、
天国に行って旧友と再会し、酒を酌み交わしていることでしょう。
もう、飲み過ぎを気にすることもないでしょう。
思う存分お酒を楽しんでください。
そして生前と同じように、優しい眼差しで、
私たちのことをずっと見守っていてください。
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2016年1月24日、大勢の子供や孫、ひ孫に囲まれて、
安らかにその生涯を閉じました。
----------享年89歳。
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2012年8月 、大勢の子供や孫、ひ孫に囲まれて、
米寿の お祝い会。
長いこと中学校の先生をやっていたので、
近所の人から「よっちゃん先生」と呼ばれています。
中学校の校長を最後に教職を離れて、随分たちますが、
変わらず「よっちゃん先生」と
親しみを込めて呼ばれ続けたのです。
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「よっちゃん先生」の奥さん、
頼子さんもこのころは元気でした。
少しばかり、幸せな病気が進行しています。
辛かった記憶を忘れさせてくれる幸せな病気。
楽しかったころの歌はしっかりと覚えています。
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8人の子供達、一人は交通事故で他界しましたが、
7人は元気に育ってそれぞれの家庭を持ち、
沢山の孫もできました。
ひ孫も次々と出現中です。
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よっちゃん先生が長い間勤めた山香中学校。
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上中学校。
ここで教鞭をとったこともあります。
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よっちゃん先生が通った東山香小学校。
もちろん子供達もこの小学校に通いました。
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ここは保育園。昔は東山香中学校がありました。
よっちゃん 先生が始めて教鞭を振るった場所です。
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先生になる前は獣医さんだったんですよ。
近所に住んでいた先生が病気になったため、
頼まれて臨時的に教壇に立ったそうです。
それがいつの間にか本職になっていったのです。
獣医を辞めて先生になった理由は、
「動物も可愛いけど、子供達のほうがもっと可愛いから」
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子供達が大好きで
人の御世話をするのが大好きな「 よっちゃん先生」は、
地元の神社の氏子総代を勤めていました。
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よっちゃん先生は杵築中学、今の杵築高校を卒業後、
鹿児島専門学校、今の鹿児島大学獣医学部を卒業しました。
昭和20年、先の戦争の戦局が厳しくなり、同年代の多くが戦地に赴き、若い命を散らしていました。
獣医学部は徴兵免除だったのですが、多くの若者達が、
国のため、郷土のため、家族の ために命を捧げる姿をみて、
本人も兵役志願を決意しました。
昭和20年4月、兵役 志願書を携えて久留米連隊を訪ねました。
面会した将校は国のために命を捧げる決意をした青年にこういったそうです。
「この戦争はもうすぐ終わる。日本は負ける。
今、君が戦地に行ったところで戦局は変わらぬ。
犬死だ。
生きて、生き延びて、
この戦争で破壊され、疲弊しきった日本を立て直すのが君の仕事だ。」 と。
そういって、志願書を彼に差し戻して席を立った そうです。
卒業後、故郷の山香町に戻り、獣医として活動するかたわら、
戦争で疲弊した地域の復興をめざして町の青年団活動に邁進しました。
教員になった後、熱心に労働組合活動に携わっていました。
そうした活動に批判的な人達もいました。
「青年よ銃を取るな」
「教え子を戦場に送るな」
というスローガンのもとに行った組合活動は、
先の戦争で体験した辛酸を、
教え子達に二度と味合わせたくないという、
よっちゃん 先生の本心からでた行動だったと思います。
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よっちゃん先生、
天国に行って旧友と再会し、酒を酌み交わしていることでしょう。
もう、飲み過ぎを気にすることもないでしょう。
思う存分お酒を楽しんでください。
そして生前と同じように、優しい眼差しで、
私たちのことをずっと見守っていてください。
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- スポーツ- Sport
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